- CHAPTER 2 -
ソリューションビジネスへの転換
設立経緯・成長過程
スキルをうまく転換し、
組織も柔軟に変えていった。
01荒波の中での船出
——新会社設立に当たり、ご苦労されたことはありますか。
中野
私のプランでは4、50名くらいの 営業と開発者の一部から成る事業企画部門だけで分社する予定でした。ところが、分社化の申請を米国のNCR本社に出したところ、ATMの保守を担当する部隊を 一緒に連れていくことという条件が付き、結果として保守部門の290名を合わせて、総勢360名が日本ATMに移籍することになりました。
山崎
ちょうど日本経済の「失われた30年」と重なって、経営的には厳しい状況下での船出でした。それまでのATMの販売や保守という、いわゆる「箱売り」から、業務効率化のアイデアとソリューションを売るビジネスに変換していったわけですが、その中心を担ったのが一緒に移籍した保守担当の社員の人たちでした。みんな機械を修理するのは得意でしたが、コールセンターでお客さまとやり取りしたり、コールセンターで働くオペレーターの人たちを指導したりする経験は全くなかったので、最初は相当苦労しました。それをリストラもせず、設立から長い時間をかけてみんなのスキルをうまく転換し、組織も柔軟に変えていった。これはある意味で奇跡だったと思います。
中野
ATMの構造をよく分かっている人たちがソリューションを企画したり、コールセンターのスタッフとして対応することは、他社との完全な差別化要素になりました。当初のプランにはなかったのですが、後からそのメリットをすごく感じました。ただ、「保守の業務はいずれ小さくなっていくので、その仕事は他の会社に委託する」という方針をみんなに説明した時期があったのですが、「自分たちの仕事が今はまだあるのになぜ?」という疑問を持つ人がほとんどでした。長い目で見たうえで、キャッシュレス化によりATMの台数が減るだろうという想定で話していたのですが、最初は分かってもらえませんでした。
中邑
元々技術屋は、修理の時間を短縮するとか、お客さんに迷惑かけないよう故障を減らすということにプライドかけて仕事をしていましたから、その仕事が将来なくなるという話しをされたので、反発が強かったです。
天運をものにする秘訣は
学び直してチャレンジすること
02学びなおしで時流に乗る
山崎
中野さんは何度も何度も説明会を開いて、今のままやっていたら日本ATMはもたないということと、将来の事業構想を丁寧に説明し、一つ一つ実現していくことによって、みんなの不安を払拭してくれました。新しい事業が次々とできていきましたが、みんながよく努力して付いていってくれたと思います。
中邑
お客さまである銀行の経営が変化していく中で、われわれもやらざるを得なかったという面もあったと思います。この25年間を振り返ってみると、大規模な金融緩和や銀行の統廃合、新紙幣の発行など銀行を取り巻く環境は大きく変わりましたが、結果的には、 当社の事業に有利に働くような変革が多かったように思います。とは言え、その天運を自分たちでものにしてきたのも事実で、その秘訣は自分たちの過去の経験に囚われることなく、学び直して新しいことにチャレンジしてきたことが大きいと思っています。